モーツァルト,日本,歴史

日本の歴史

モーツァルト 歴史

モーツァルトが生きた時代、日本ではどんなことが起きていたのでしょうか。代表的な出来事を紹介します。モーツァルトが音楽を奏でているときの日本での出来事を見ると、あまりの文化のギャップに驚いてしまいます。

1758年 宝暦事件

1758年といえば、モーツァルトが2歳のときです。翌年にはクラヴィーアを弾き始めていました。その頃の日本は江戸時代で、『宝暦事件』が起きていました。
尊王論者が弾圧された事件です。首謀者は竹内式部という人物です。竹内式部は京都で公家に対して尊王論を説いていた人物で、朱子学者で神道家でもありました。
竹内式部は若い公家を前に、日本書紀などを講義していました。朝廷の政権回復への心構えが盛り込まれていて、江戸幕府を非難する内容もありました。この竹内式部の教えに同感する者が大勢おり、わざわざ天皇に対してそのことを講義する公卿まで現れてしまったのです。
更には、直接竹内式部が天皇に講義するにまでなりました。この動きに対して、それまでの関白であった一条道香が朝廷と幕府の関係の悪化を恐れて、公卿らを謹慎させ、竹内式部は当時訴訟の処理を行っていた京都所司代に告発されることになり、翌年、重追放となったものです。
竹内式部が追放になった後、天皇と摂関家の対立が悪化することになり、この対立は天皇がこの世を去るまで続きました。

1767年 明和事件

1767年と言えば、モーツァルトは11歳。ウィーンでオペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』を上演した年です。日本では明和事件ということが起っていました。山県大弐(やまがただいに)、藤井右門が江戸幕府への謀反の罪で捕らわれ、処刑された事件です。江戸の日本橋で儒学や兵学の塾を開いていた山県大弐ですが、兵学の中で幕府にとって攻防上で重要な地点を例に挙げて解説したり、天皇を非難したりするなどの過激な発言を講義で述べていました。一方、先の宝暦事件で重追放になっている竹内式部の相棒だった藤井右門は、甲府・江戸状を攻撃する作戦などを述べ、不安に思った弟子に密告されてしまいます。これにより、二人は処刑されることとなります。重追放になっていた竹内式部は、とばっちりを受けて、八丈島に島流しになりました。

1772年 江戸大火

モーツァルトが16歳でイタリアに音楽旅行をし、ミラノでオペラ『ルチオ・シッラ』を上演している頃、日本ではあの有名な、江戸の大火がありました。江戸は何度も大火に見舞われていますが、モーツァルトが生きていた時代のものは明和の大火とも呼ばれています。この年の2月29日に発生した大火で、江戸三大大火の一つです。目黒行人坂大円寺から火が出たので、目黒行人坂大火という別名もあります。麻布や浅草の広範囲に渡って消失し、1万人もの人が命を落としました。

1774年 解体新書

1774年はモーツァルト18歳の年です。ウィーンでオペラ『偽りの女庭師』を上演しました。日本では、初めての翻訳解剖書が出されました。杉田玄白が、ドイツ人医師クルムスの医学書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を翻訳したものです。本文4巻、図版1巻からなり、平賀源内に絵を学んだ小田野直武によって図案が描かれました。翻訳のきっかけは、1771年に解剖に関わる機会があった杉田玄白が、持ち込んだクルムスの解剖図があまりにも正確で驚いたことに端を発します。

1782年 天明の大飢饉

1782年はモーツァルトが26歳で、オペラ『後宮からの誘惑』を上演した年です。また、コンスタンツェと結婚した年でもあります。この頃からピアノ協奏曲の制作が顕著になります。日本では、三大飢饉と呼ばれるうちの一つ、天明の大飢饉が起っていました。1781〜1789年に全国的な飢饉があり、長雨や火山の噴火、天候によるひがいなどで大凶作となり、仙台藩だけでも餓えで命を落とした人が30万人もいたと言われています。